子育ての本を幾つか読む中で、考えさせられる本に出逢ったので、頭の整理として記録。
TIGER MOTHER(斎藤孝 訳)
- 作者: エイミー・チュア,齋藤孝
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2011/05/17
(訳者あとがきより)
これは中国系アメリカ人の子育てを通して描かれた母親と二人の娘の物語であり、欧米と東洋の文化および教育の衝突の話です。
著者のエイミー・チュアは独自の教育方針を貫く二児の母。タイガー・マザーというタイトルが示すように、虎のように強くてエネルギーにあふれた女性です。そして自分自身の子どもに「一人でも生きていける強さ」を持って欲しいと考え、千尋の谷に我が子を落とす獅子のような厳しさで育てます。
著者がこの本をが書いた理由の一つは『中国系アメリカ人が米国内の様々な面で存在感を出していることに危機感を感じた(純粋?)アメリカ人が中国式のスパルタ子育てに対して批判的なスタンスを示すこと』に対する反論ではないかと思います。
中国式スパルタで教育を進め、成功と挫折を味わった著者が『欧米流と中国流の子育てのどちらが良い悪いではなくて、双方が違うということ』(で、自分は中国式がいいと信じていること)を言いたいがために書き始めたものだと私は感じました。
著者のいう中国流子育てとは以下のような内容です。
中国の親がよくわかっているのは、何をするにしてもうまくなるまでは楽しいことなどないということです。そのためには努力が必要ですが、当の子どもたちは放っておけば努力などしませんから、親が子どもたちの希望など無視することが重要なのです。
前半はいいのですが、後半はなんという親のエゴ、、と思いながら読み進めていくと、、
中国人の親はどのように自分流をやりおおせてきたのか、私なりに長い間、一生懸命に考えてきました。それで出た結論が、中国人の親と欧米人の親の考え方には三つの相違点があるということです。
①欧米人の親は子どもたちの自尊心を極度に心配すること
②中国人の親が子どもは全てにおいて親に恩義があると考えている
③中国人の親は、子どもたちの望みや好みをすべて踏みにじる結果になっても子どもにとって何がベストなのか解っているという自負がある(中略)
誤解しないでくださいね。中国人の親は子どものことを大事に思ってないということではないので。むしろその逆です。育児モデルが180度違うということなのです。
おそらく、この部分が筆者が最も伝えたいことの一つだと思います。
自分でも自分のやり方が普通でないことの自覚はあるけど、子どもに対して愛情がないと揶揄されることについては明確に否定したいんだと思います。
欧米人の親は子どもの人格を尊重しようとし、子どもたちが真意情熱を傾けられるものを見つけるように進め、その選択を支え、励ましの言葉をかけ、そういった環境を整えてあげようとします。対照的に、中国人の親は子どもを守る最善の方法は、彼らのために将来を用意して、子どもたちが自分たちに何ができるかを気づかせてやり、才能や勤労習慣、それに揺るぎない内なる自身で身を固めることだと思っているのです。
なるほど、、。確かに、そう言われると、中国式も悪くないような気がしてきますし、これって、日本の古来の教育方針にも近いような気がします。
ただ、著者の異常なところは、それを誰にでも適用するということです。本書の中の笑える場面として、飼い犬のしつけについて、夫婦(著者は女性ですので、旦那様と)喧嘩をする場面があり、その中で、著者はこう言います。
「ソフィア(著者の長女)やルル(著者の次女)に対して、あなたはどんな夢を持っているの?そんなこと、今まで考えたこともないんじゃない?あなたのココ(著者の飼い犬)に対する夢って何なのよ?」
犬に夢?著者の旦那様もさすがにこれには笑ってしまったようで、これをきっかけに喧嘩は終わります。
ただ、著者も変化があるようで、後半では犬についてこう書かれています。
ココは動物であり、ソフィアやルルと違って、生まれつき何かの能力に恵まれているわけではありません。爆弾処理班とか麻薬摘発チームで活躍している犬もいるけど、ほとんどの犬は仕事を持ったり、特殊技能を身につけていたりしません。ですが、それでも犬たちは十分に幸せなのです。
著者の子育ての結果、長女と次女は異なる成長をしました。長女は中国式にうまくはまり、成績優秀、ピアノでは数々のコンクールで優勝しながらカーネギーホールで演奏する栄誉を勝ち取ったそうです。
一方、次女は成績優秀でバイオリンで神童と言われながらも、母親の子育て方針にことごとく立ち向かう『中国式ではない』子供として成長します。
ジュリアードのオーディションに落ち、母親が課した責任を無視しそれでも本人に重大な問題が起こらないこと、つまり『母親のいうことを聞かなくても大丈夫なこと』を認識するようになった次女はますます反抗的になっていきます。
そこでその原因の一つを著者は以下のように表現しています。
中国式子育ては失敗に直面したと聞いその弱さを露呈します。失敗する可能性を最初から計算に入れていないからです。中国モデルは目的の成就で成り立っています。それが自信と猛勉強の好循環を生み、さらなる成功につながっていくのです。
ここでは、私は筆者と異なる理解をしています。
著者は『次女は深刻な挫折があったので中国式子育てが頓挫した』ということをバックアップするために中国式子育ての弱点を記述しているのだと思います。
私は次女が筆者の子育て方針に反抗するのは『自分に選択肢がない』ということに対する本能的な抵抗だと思います。
何か成功をした時に『それが自分の選択だった』という前提が重要な人種がいると思います。(わたしはその人種です)そういった人種は、誰かに強要されて得たことの成功は、それはそれで嬉しいんですが、心の底からは喜べない。次女さんはそういう方なんじゃないかと思います。
そして、次女と母親は決定的な口論をします。
この部分について、著者は非常に辛い思いで書かれたのではないかと推察します。
「あんたは私を愛してなんかいないんだわ」ルルは吐き出すように言いました。「自分でそう思っているけど、そうじゃないのよ。あんたのそばにいるだけでむかついてくるわ。あんたが私の人生を壊したのよ。あんたのそばにいるなんて我慢できない。それがあんたのお望みなんでしょ」
私(著者)は喉の奥から何かが込み上げてきました。ルルは構わず続けました。
「あんたは『たちの悪い母親』よ。自分勝手な。誰がどうなってもかまわないのよ。私に感謝の気持ちがないなんて言っておきながら、結局あんたがやってることって、私のためって言いながら全部自分のためじゃない」
なんということでしょう。。。(涙)
やり方に特徴はあるものの、母親から子どもへの愛情は本物だったと思います。中国式子育ての場合、厳しさは愛情と信頼の裏返しなので、自分の全てを注ぎこんで愛している娘にこう言われた時、著者は文字で表現できることの100万倍辛い思いをされたんだろうと思います。僕ならその場で泣いちゃうかもしれない。。。
この場面から、著者は次女に対する子育ての方針(戦略)を変更せざる得なくなります。
そして、次女はバイオリンに打ち込むことを辞めてテニスに情熱を傾け、下手でも楽しみ、自ら進んで練習し、中学生として唯一高校のチームに選ばれるなどの頭角を現していきます。
※ここで最初に引用したこと(うまくなるまでは楽しくない、みたいな)が、当てはまらないことがあるということを著者が学んだと思います。
著者の極端な育児方針に対して、最大の理解者である旦那様からも、同様の観点から問いかけがあったようで、私はここに著者と自分の決定的な違いを感じます。
よく私にぶつけられる質問があります。「だけどエイミー、教えてくれ。これって一体誰のためなんだ。君の娘たちのためなのか、それとも自分自身のためなのか」。しかし、これは典型的な欧米流の質問だと思います(なぜなら中国人は、子どもは自分の分身だと考えているからです)。
私の母親も韓国人2世なので、筆者と同じアジア系移民の母として、ちょっとタイガーだっと思います。そして私にはそれが合わなかったと感じています。
そういった私の背景を含め『子供を自分の分身だと考えている』という点に自分との違いを感じました。ただもしかしたら、母親だからこそ持てる感覚なのかもしれないと男親として感じる側面もあります。
本書を読みながら、自分の子供に対する期待や立ち振る舞いを振り返りました。
私が子供に対してする期待は、著者が飼い犬に対してする期待に相当近いと感じます。彼らが幸せでありさえすれば、その形はなんでも構いません。
自分が自分の選択肢にこだわる人種だからこそ、幼児期からの英才教育にも全く関心がありません。
ただこの本を読んで自分と逆の個性もあり得ることを考えると、うちの子たちの中にも幼児教育をしたほうがいい子もいるのかもしれないと感じることができました。
また、本書を通して『子育てとは親がやりたいからやるもんだ』ということだと感じました。
幼児英才教育も、学歴偏重教育も、超放任方針も、それぞれに良い面・悪い面があり、何が正しいというよりかは、それぞれの子どもにとってどれが最も合うかが大事なので親がそれぞれの子どもに合わせて方針を合わせてあげるべきだ、
ということではありません。
そもそも、それぞれの子どもに何が最も合うか?をどう判断すれば良いんでしょうか?
結果としての学歴や、職業、経済的成功で、子育ての成功を判断していることが多いですが、本当にそれが子育ての成功なんでしょうか?
私はどんな状況であれ、子どもたちが経済的にも心理的にも自立すれば、それ以上はおまけのようなものじゃないかと感じています。幸せか幸せじゃないかも、本人たちがすすんで選んだことなら、親がどうこう言う筋合いはないでしょう。
ただ、個人的にはこれからの世の中は『経済的にも精神的にも自立する』ということが、今よりも難しくなってくるので『自分の頭で考え抜いて、自分が納得して決める』という力は必要だと感じています。
この点だけは子どもに伝えていくつもりです。
ただし、それすらも、それが本当に子どもたちのためになるのかどうかという点については、確かではありません。そういう観点から考えると、今、自分がそう信じているから、親として信じた姿になった子どもを見たいと思っているんだと思います。
なので繰り返しになりますが、子育ては子どものためにやってるんじゃなくて、親がやりたいこと(自分が見たい将来を見るための努力)をやってるだけと、私としては結論します。
なので私は、子育て方針について何が正しいかという議論は意味がないと思います(統計としてデータを示すことはとっても価値があると思いますが)。親が子どもに何を望もうか、それは公序良俗に反しない限り、個別の家の勝手だと思うからです。
その観点で考えれば、もし中国式スパルタ育児法に対し米国内で批判的な風潮があったとしても、それは相手にする意味がないので、著者のような聡明な方がこの本を書こうと思った本当の意味はなんだったんだろうか、というところに思考が集中しています。
そして今はなんとなく、この本は娘さんたちへの愛を表明する遺言のような気がしています。
以上です。