親密「ではない」他者と〈連帯〉できるか -瀬尾まいこ『夜明けのすべて』

 松葉杖をつきながら歩く人に、「そんなの痛くないだろ、走れ」と言う人はいないだろう。なぜならその人が「痛み」を抱えていることは、片足に巻かれたギプスと手に抱えた松葉杖という、目に見えるものからはっきりと分かるからだ。

 しかし、日頃接する相手が目には見えない「痛み」を抱えていたとしたらどうか。松葉杖をつきながら歩く人に「走れ」と言うような無茶を要求するはずがない、と言い切れるだろうか。

 例えばある会社で、無気力で向上心もなさそうな男性社員が、人知れずパニック障害を抱えているとしたら。月に一度ほど些細なことで周囲に当たり散らす女性社員が、実はPMSを抱えているとしたら。瀬尾まいこ『夜明けのすべて』(水鈴社、2020年/文春文庫、2023年)は、そんなふたりが主人公の小説である。

 藤沢と山添はともに、とある小さな企業で働く若手社員である。周囲の同僚や上司たちは年上ばかりであり、成長よりも定時退社を優先するような「ゆるい」職場である。藤沢と山添も、この職場にとりあえずは満足している。それはふたりがそれぞれの理由で、自らのキャリアに諦めをつけているからだ。

 藤沢はPMS(月経前症候群)、山添はパニック障害(精神疾患の一種)を抱えている。ふたりとも新卒時は別の大手企業に就職したが、それぞれの抱える問題により短期で退職し、無理なく働き続けられる職場を求め、この小さな会社に転職した。

 物語は、藤沢がふとしたきっかけで山添の病気を知ることから動き出す。いささかお節介な藤沢の関わり方に山添は当初困惑するも、徐々に受け入れていく。そして、山添と藤沢は、お互いのためにできる働きかけをする。その結果、二人は少しずつ、生活と仕事に前向きに向き合えるようになる。

 ここまでは、「痛み」を抱えた者同士が助け合うという、よくあるモチーフである。しかし、『夜明けのすべて』の妙意は、藤沢と山添が親密な仲に「ならない」ことにある。

 「痛み」の癒しや回復は、「親密な人が寄り添ってくれた」というストーリーとともに語られることが多い。有名な例は細川貂々『ツレがうつになりまして』(幻冬舎、2006年)だろう。

 パートナーや家族といった親密な人が、「痛み」を抱えた人に献身的に寄り添う。その結果「痛み」を抱えた人は癒され、回復していく。もちろん、「寄り添う」とひとことで言っても、決して簡単なことではない。そうしたエピソード一つひとつはとても温かく、かけがえのないものである。

 しかし、親密な仲であるからといって、自分には経験しえない相手の「痛み」に寄り添いきれるとは限らない。作中でも、山添はパニック障害の発症後、それ以前から交際していた恋人と別れている。

 逆に言えば、親密な仲「ではない」人同士が他者の「痛み」を理解することができれば、そこには「痛み」を抱えた者同士が連帯し、支え合う可能性があるのではないか。

 藤沢と山添は親密「ではない」他人同士である。そして、相手に寄り添おうと思っても、「できること」と「できないこと」がある。山添が藤沢のPMSを肩代わりすることはできないし、藤沢が山添のパニック障害を引き受けることもできない。

 しかし山添と藤沢は、他人の抱える「痛み」を、「わからない」けれど「わかろう」とした。そして互いに、相手のためにできる、ささやかな働きかけをした。一連のできごとを通して同志のように思い合ったふたりは、私生活のパートナーに、ならない。

 親密「ではない」距離感を保ちつつ、相手のためにできることをする。そうした関わり方を積み重ねた先に、私たちが互いの「痛み」を広く浅く思いやる輪が広がっていくのではないか。藤沢と山添の絶妙な距離感を見ていると、そんな考えが浮かぶ。

 他者の抱えた痛みを、「わからない」けれど「わかろう」とする。「できること」と「できないこと」の境目を自覚したうえで、相手のためにできることをする。そこに、異なる「痛み」を抱えた者同士が連帯できる可能性は、確かにある。この作品が描いているのは、そんな希望だ。

(藤崎 尊文)

   

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