「する/される」の外側へ -國分功一郎『中動態の世界』

 「中動態」というかつて存在した文法事項に光を当てることで、今私たちが当たり前のように受け入れている「意志」と「責任」の概念を問い直す。國分功一郎『中動態の世界 -意志と責任の考古学』(医学書院、2017年)は、そんな一冊である。

 「中動態」とは耳慣れない用語である。「◯動態」と聞くと、あの頃習った「能動態」「受動態」が思い浮かぶ。

 英語の授業で能動態の文と受動態の文を「書き換え問題」で行き来する。あるいは国語の授業で能動の「対義語」は受動であると習う。こうして私たちは、能動/受動の区分を当然のものとして受け入れていく。

 ある行為を「する」なら能動、「される」なら受動。この二分法は単純明快である。しかし、能動/受動の二分法で世界を捉えようとすると、至る所で無理が生じる。著者はひとつの例として「謝罪」を挙げる。

 Aさんが過ちを犯し、Bさんが傷ついた。BさんがAさんに謝罪を求め、Aさんが「申し訳ありません」と謝罪する。ここで、Aさんの謝罪は能動だろうか。自ら進んでではなく、「相手(や周囲)が謝れと言うから仕方なく」「とりあえずその場を乗り切るために」謝る、という場面も多くある。では、Aさんの謝罪は受動だろうか。Aさんが「私はBさんに謝罪させられています」と言ったら、BさんはAさんを許さないだろう。

 このように、「謝罪」という行為ひとつとっても、能動/受動のどちらかに振り分けられるものではない。著者の問題意識は、能動/受動の外側へと向かう。

能動と受動の区別は能動態と受動態という文法上の区別が発生させている効果ではないだろうか? 能動と受動の区別が、かなり無理のある強引な区別であるのは、そもそもそれを発生させている能動態と受動態の区別が少しも普遍的ではなく、それどころか歴史上新しいものであるからではないだろうか? 歴史のある時点で、何らかの理由から能動と受動を対立させるパースペクティヴが言語のなかに導入されたが、その導入時の矛盾がこの区別の粗雑さに表れているのではないだろうか?(p.35)

 そして「中動態」をめぐる思索の旅が始まる。中動態とは、かつてインドからヨーロッパにかけての広い範囲で、多くの言語に存在した表現である。

 言語学者の知見を参照しながら、かつて存在した「中動態」の姿に迫る。もちろんそれだけでも、今ある言語の来歴をたどる、価値ある知的営みである。しかし、この本における著者の仕事はそれだけではない。アリストテレス、ハイデッガー、アレントなど、哲学者たちの思索をつなぎあわせ、「意志」と「責任」の概念を問い直す。

 この本は、かつて存在した「中動態の世界」を探ることにより、能動/受動の二分法に囚われた私たちの思考様式を揺さぶる一冊である。

われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。確かにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。(p.294)

 「いま・ここ」にある状況を当然のものとして受け入れ、その中で「役に立つ」ことばかりを考えている限り、既存の思考枠組みの外に出ることはできない。「処方箋」がないからといって、この本を「役に立たない」と切り捨てるのは早計である。中動態の世界に思考を巡らせてみる、そのこと自体に意味があるのだ。

(藤崎 尊文)

   

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