学ぶとは、変身すること -千葉雅也『勉強の哲学』

 私たちは幼い頃から「勉強」をしてきた。その中で、ある時は言われるがままに取り組み、ある時はより良いノウハウを求め、ある時は「何のために?」と疑ってみたりもした。勉強の「効用」や「方法」に関する情報は世にあふれている。しかし、そもそも「勉強」とは何か、と突き詰めて考えることは、あまりないのではないか。

 千葉雅也『勉強の哲学 -来たるべきバカのために』(文藝春秋、2017年)は、その根本を問う、「深い」勉強へ読者を誘う一冊である。

(この本の章立て)

  第1章 勉強と言語 -言語偏重の人になる

  第2章 アイロニー、ユーモア、ナンセンス

  第3章 決断ではなく中断

  第4章 勉強を有限化する技術

 この本は大きく「原理編」と「実践編」に分かれている。原理編(第1章〜第3章前半)で「勉強とは何か」を哲学的に考察し、実践編(第3章後半〜第4章)で具体的なノウハウを示す。読者としては「実践編」のノウハウを手っ取り早くつかみたいところ。しかしそこをぐっとこらえて「原理編」を読む。すると、原理を踏まえた「深い」実践をすることができる。

 以下では、「勉強とは何か」を考察した第1章を中心に、この本の内容を紹介したい。

 筆者によれば、「勉強とは、自己破壊である」(p.18)。「自己破壊」の目的は、「これまでの『ノリ』から自由になる」(同)ことだという。ここでの「ノリ」は、環境へ適応(順応)すること、と筆者は定義する。会社(学校)、家族、地元など、私たちが身を置く環境には、それぞれの「ノリ」がある。「同調圧力」という言葉もあるように、環境の「ノリ」は時に私たちを苦しめる。しかし「ノリ」が嫌だからといって、どこにも所属しない、という状態は実現不可能である。

 では、どうすればいいのか。筆者が提案するのは「深い」勉強をすること、すなわち「言語偏重の人になる」(p.57)ことだ。言語は現実の物事を指し示す。同時に私たちは、言語を使って、現実ではない物事を語ることもできる。私たちは言語を使うことで、ある環境に身を置きながら、かつその環境のノリから距離をとることができる。

 第2章・第3章では、第1章の考察を踏まえ、勉強の三要素が論じられている。一言でまとめれば、勉強という営みは、疑う(アイロニー)、目移りする(ユーモア)、とどまる(享楽的こだわり)のバランスで成り立っている。アイロニー(疑うこと)は物事の本質に迫るために必要だが、疑いすぎると何も言えなくなる。ユーモア(目移りすること)は見方を多様化するために必要だが、目移りしすぎると何も深まらない。しかし現実には、目移りすることの範囲は、享楽的こだわり(個々の趣味嗜好)により限定される。勉強とは、アイロニー、ユーモア、享楽的こだわりの循環で成り立っている。

 第3章の後半と第4章は実践編である。情報が過剰に供給される社会で勉強をするには、「有限化」が必要である。その前提のもと、筆者は「欲望年表」(学ぶテーマを決めるための自己分析ツール)、「読む技術」(学術的なインプットの基本)、「書く技術」(書きながら考える手法、有用なアプリケーション)を解説する。どの項目についても、原理編の議論を踏まえながら、実践しやすいノウハウが示されている。詳細は、実際にこの本を読んで確認されることを勧める。

 本書の特徴は、勉強の原理と実践を両方示していることである。勉強とは何か。勉強という営みは、どんな要素から成り立っているのか。それらを踏まえてこそ、具体的なノウハウの足場ができる。この本を読んで、勉強を始めてみる。進める中で迷いが生じたら、またこの本で原理と実践を思い出せばいい。千葉雅也『勉強の哲学』は、勉強で自分を変えたいと願う人にとって、勇気と指針をくれる一冊だ。

(藤崎 尊文)

   

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