共通言語が持つ不思議な力

毎月歳時記として、和風月名や季節ごとの行事などを取り上げ、同時に、それにまつわる『言葉』についてのブログを書いています。

今回は直接季節にまつわることではありませんが、『国際母語デー』について書いてみたいと思います。

ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、2月21日は、国際連合教育文化機構(ユネスコ)が、「母国の文化や言語を尊重する国際的な記念日」として定めた『国際母語デー』です。

1999年11月17日に制定された後、2000年2月から毎年、この『国際母語デー』が祝われているそうですが、日本ではどちらかというと馴染みが薄いようです。

詳細な説明は割愛しますが、母語を強制的に統一しようとした国に対し、1952年2月21日にバングラデシュの住民が自分たちの母語を守るために命を懸けて戦ったことに由来しています。

日本は南北に長く連なる国で、地域によって異なる表現やイントネーションの違いなどはありますが、基本的には1つの同一言語が使用されています。

メディアの発達により、全国各地で使われている言葉も知られるようになり、現在は主に東京で使われている言葉が『共通語』という位置づけになっています。

時代を経るごとに、その地域独特の方言のみで会話をする人口と頻度は減少方向にあり、特に若い世代では、相手によって共通語と方言を使い分けることが普通になりつつあるようです。
これはある意味、TPOを使い分ける教養のひとつとしてとらえられる面もあり、悪いことではないと思います。

しかし、方言やお国訛りを使って話すときは「素の自分」になりやすく、今の自分を作り上げたであろう、生まれ育った土地や環境、親戚や友人たちを思い起こすことも少なくないでしょう。
地方から上京してきた人のあるあるですが、初対面の人と話しているときに、お互いが同郷出身者とわかった瞬間、急激な親近感を感じるということがあります。共通の知人がいるわけでもなく、単に同じ県の出身者というだけで、その人に対して好意的になったりもします。

このようなことから、特に方言などその地方独自の言葉で話すことは、単なる意志や事柄の伝達手段だけではないことがわかります。お互いの中に共通する景色や風習を共有することができ、同郷出身者であるという連帯感のようなものも感じます。

日本では、日本語を母語としている人が圧倒的に多いでしょうが、日常的に使用する『共通語』の他に自分自身を形成した故郷の言葉がある人は、それを大切に持ち続けて欲しいと思います。
それはある意味で『もうひとつの母語』とも言え、いつかその言葉が自分自身を原点回帰へと導くきっかけになるかもしれません。

そんなことをしみじみ感じた『国際母語デー』でした。

(植木乃梨子)

   

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