1年ほど前に、ある曲を紹介された。傘村トータの「贖罪」という歌だ(1)。
この曲の歌詞は一風変わっている。一般的な歌詞は、Aメロ・Bメロで主人公の心情や情景などの場面設定を描き、サビで一気に物語を展開する(2)。しかしこの曲の場合、メロディーの盛り上がりこそあれ、歌詞は(末尾の一節を除き)同じ調子で続く。「人の努力を笑ったこと」「嫌いなものを突っぱねたこと」「周りに合わせて愛想笑いしたこと」「強がりを偉いと勘違いしたこと」など、後悔が次々とつづられ、「贖罪」がなされる。
その中にこんな一節がある。
「贖罪」である以上、このフレーズで想定されているのは、「ごめんなさい」という謝罪の言葉を「言わなかったこと」「簡単に言ったこと」それぞれが何らかの「罪」を招いた場面である。
これらが両方とも「罪」を招きうる。言葉とは、「ごめんなさい」というフレーズひとつとっても、発すれば/発さなければよい、と白黒つけられるものではないのだ。
「コミュニケーション」というとつい、どう言葉を「発する」か、に目が行きがちである。しかし私たちは、日々の「コミュニケーション」(意思を伝達すること)において、言葉を発する/発さない、ある言葉を使う/使わない、という選択をしている。他者に何かを伝えようとするとき、ある言葉を選ぶことは、別の言葉を選ばないということでもある。そして私たちは、日々見聞きしたことについて、あることは他者に伝え、あることは自分の中にしまっておく(あるいは、忘れる)。
言葉を発するのか、発さないのか。どんな言葉を選ぶのか、選ばないのか。私たちは日々、そうした選択をしながら生きている。そして、意思を伝えることが時に上手くいき、時に誤解を生む、という経験を積み重ねるなかで、言葉遣いを磨き上げていくのだ。
様々な後悔がつづられた「贖罪」の歌詞は、最後の一節だけが、後悔ではない言葉で締めくくられる。
人と関わり合い、意思を伝え合うなかで、後悔しないことなどありえない。しかし、後悔から学ぶことはできる。私たちは、言葉を使うことによる危うさを抱えている一方で、言葉を磨き続けられる可能性も有しているのだ。
この歌を聴くたび、そんなことを教えられる。
(藤崎 尊文)
(1)傘村トータ「贖罪」 作詞・作曲・調教・動画:傘村トータ 歌:IA & 結月ゆかり & 初音ミク & Fukase & Ken (vocaloid) (2018年リリース)
(2)北村英明『これから始める人のための作詞入門』(メトロポリタンプレス、2012年)。